福岡高等裁判所 昭和53年(ネ)371号 判決 1984年6月18日
亡村上儀四郎訴訟承継人
控訴人
村上カ子
右同
控訴人
村上寿一
右同
控訴人
藤本富造
右同
控訴人
松本幸子
亡豊島安喜訴訟承継人
控訴人
豊島政吉
亡村上哲三訴訟承継人
控訴人
村上ロク
控訴人
村上師幸
右控訴人ら訴訟代理人
佐竹新也
野口敏夫
被控訴人
城山覚
被控訴人
橋本憲興
被控訴人
円応寺
右代表者代表役員
橋本正禅
被控訴人
橋本正禅
右被控訴人ら訴訟代理人
塚本富士男
主文
一 原判決中被承継人村上儀四郎、同豊島安喜、同村上哲三、控訴人村上師幸関係部分を取り消す。
二 被控訴人城山覚、同橋本憲興、同円応寺、同橋本正禅は、各自、控訴人村上カ子に対し金一六万六六六六円及びこれに対する昭和四六年六月四日から支払ずみまで年五分の割合による金員、並びに、控訴人村上寿一、同藤本富造、同松本幸子に対し各金一一万一一一〇円及びこれに対する同日から支払ずみまで同割合による金員を支払え。
三 被控訴人円応寺は、控訴人村上寿一、同豊島政吉、同村上ロク、同村上師幸に対し、原判決別紙第二目録記載の建物を収去して同第一目録記載の土地を明け渡せ。
四 訴訟費用中、控訴人ら(前記被承継人らを含む。)と被控訴人らとの間に生じた分は、第一、二審とも被控訴人らの負担とする。
事実
一 控訴人らは、主文と同旨の判決及び仮執行の宣言を求め、被控訴人らは「本件各控訴を棄却する。控訴費用は控訴人らの負担とする。」との判決を求めた。
二 当事者の主張及び証拠関係は、次のとおり改め加えるほか、原判決事実摘示のうち控訴人ら・被控訴人ら関係部分及び本件当審記録中の書証目録・証人等目録記載のとおりであるからこれを引用する。
1(一) 原判決四枚目裏八行目冒頭から同五枚目裏七行目末尾までを次のとおり改める。
(イ) 幕藩体制下では、領主の地位を占め広大な境内地及び領地を領有していた社寺が少なくなかつたが、徳川幕府の大政奉還と諸侯の版籍奉還に続いて、明治四年正月五日の「社寺領上知令」により社寺の公法的な土地支配権が諸大名の領地の上の権利などと同様に国家に帰属することとなり、社寺領に対しては「現在ノ境内ヲ除クノ外」一般上知が命ぜられ官没されるに至つた。
右の「社寺領上知令」の対象となつた「社寺領」とは、朱印地、黒印地、除地、見捨地等の免税地であり、社寺はこれに対し旧幕時代以来の除地特権を有し、領主として除地たることに基づく免税特権、すなわち公租徴収権を行使していたものである(ちなみに、その後制定された「社寺境内外区画取調規則<明治八年六月二九日地租改正事務局達乙第四号>」第一条に「社寺境内ノ儀ハ祭典法要ニ必需之場所ヲ区画シ更ニ新境内ト定其余悉皆上地之積取調ヘキ事但民有地ノ社寺ハ従前ノ通心得ヘキ事」と規定されているとおり民有地の社寺地は特に新境内を区画する必要はなく当然に「社寺領上知令」の対象外であつた。)。
ところで、「社寺領上知令」では、寺院墓地が上知の対象となるか否か明確ではないが、「明治四年五月二四日太政官達第二五八号」によると「墓所ヲ除クノ外」上知することを命じており、寺院墓地は、当然に非上知の有税社寺地内の墓地を含めて上知を全面的に免れたのである。
なお、上知の対象から免れた現在の境内は官民有未定の状態に置かれた。
その後、明治六年七月二八日には「地租改正条例(太政官布告第二七二号)」が公布され、これに基づき地租改正事業が全国的に施行されたが、「改正地所名称区別(明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号)」によつて免税寺地のうち上知を免れていた現在の境内は民有地にあらざるものとして官有地第四種に編入され、免税寺地内の境内墓地は民有地にあらざる墳墓地として官有地第三種に編入され、官有地にあらざるその他の墓地は全部民有地第三種に編入された。
さらに、その後、「地所処分仮規則(明治八年五月三〇日地租改正事務局制定)」が制定され、同規則第六章第一条「従前官有地ニ設クル墳墓ノ地区域ヲナシタル地ハ今度更ニ民有地第三種ト定メ人民共有墓地トナスヘキコト但区域内ニ余地アルトモ将来ノ備地ト心得据置ヘキ事」の規定により、免税寺地内の境内墓地は官有地第三種からさらに民有地第三種に編入され、人民共有墓地となすべきこととされた。
また、未だ官有地に編入されていない免税寺地内の墓地についても、同規則第六章第二条「寺院ノ境内ニ設クル墓地ハ実施ノ景況ニヨリ境内外ヲ区分シ境外ニ属スルモノハ第一条ノ通処分スヘシ但境内堂塔ニ傍テ所々ニ星散独立シ区域定メカタキ分ハ先ツ以テ従前ノ侭現境内ニ据置キ内訳腹書ニ記載スヘキ事」により、境外に属する墓地として第一条のとおり処分されたので、結局、いずれにしても免税寺地内の墓地は、当時の政府により民有地第三種と定め、人民共有墓地となすべき旨の行政処分がなされたわけである。
これを本件についてみれば、被控訴人円応寺の旧境内は「除地」であり(「円応寺肥後国八代郡八代町と題する書面」及び「熊本県庁備付社寺境内外区画調書写」<これらは社寺境内外区画取調規則第六条所定の雛形による。>にいずれも「除地」と明記されている。)、免税寺地であるから、右旧境内中の本件墓地は、「改正地所名称区別」により官有地第三種に編入され、さらに「地所処分仮規則」第六章第一条の規定により民有地第三種と定められ人民共有墓地となつた。
仮に、本件墓地が「改正地所名称区別」の下において未だ官有地第三種に編入されていなかつたとしても、「地所処分仮規則」第六章第二条の規定により旧境内のうち境外に属する墓地として同規則第六章第一条のとおり処分されたものであり、いずれにしても本件墓地は民有地第三種と定められ人民共有墓地となつた。
なお、西本町九九番の寺敷は、「改正地所名称区別」により官有地第四種に編入されていたが、「地所処分仮規則」の下でも官有地第四種に編入すべきこととされた(同規則第七章第二節第一条)。
ところで、地租改正処分における地種決定、特に官民有区分に際しての一般的基準は「民有の確証」の有無であるが、本件墓地を人民共有墓地となし村上忠蔵外四五人持となした処分は、「民有の確証」による民有地編入という処分の一般原則に従わず、檀家による共同利用という外形的事実に基づいてなされた処分であるから、単なる所有権の確認ではなく所有権を形成付与するものであり、これにより村上忠蔵外四五人は私法的な土地支配権を取得し、かかる権利が民法施行後は、民法施行法第三六条により民法上の共有持分権となつたのである。
すなわち、当時の政府の方針は、境内墓地に対する寺院の私法的支配を認めず、墓石を所有する墓地の共同利用者らに境内墓地の所有権(共同持分権)を形成的に付与する旨の処分をなしたものであり、未だ公・私法未分化の段階にあつた地租改正期にあつては、かかる処分は単に税制上の地積決定にとどまるものではなく、地所所有権の得喪変更を生ぜしめる私法的効果をも伴つたものであつた。
そして、本件土地は、明治二二年に発足した土地台帳に村上忠蔵外四五人の共有と記載され(村上忠蔵については、同人が隠居したためその子村上仙蔵名義となつている。)、その後、登記簿の表題部にも同様の記載がなされたものである。
(ロ) 被控訴人橋本正禅は、昭和二三年四月三〇日頃被控訴人円応寺の主管者として本件土地が村上仙蔵外四五名の共有墓地であることを承認したが、一方、国の財務当局、熊本県、八代市も同様のことを承認し、それを前提とする行政上の取扱いをしてきた。
(二) 同六枚目表四行目冒頭から同八行目末尾までを次のとおり改める。
明治九年四月二七日頃地租改正により、本件土地は、村上忠蔵、村上儀平、村上友次、豊島常吉外四二名の共有とされ、以後、同人ら、又は、その相続人らは共同所有の意思をもつて、本件土地上に墓石を所有して、本件土地を平隠かつ公然に共同占有し、その占有の始め善意、かつ、無過失であつたところ、民法施行日である明治三一年七月一六日から起算し、一〇年を経過した明治四一年七月一七日をもつて取得時効が完成した。仮に、そうでないとしても、右民法施行日から起算し、二〇年を経過した大正七年七月一七日をもつて取得時効が完成した。
(三) 同枚目表一〇行目の「豊島仁二郎」を「豊島常吉」と改め、同一三行目の「共有持分権」の前に「(村上忠蔵外四五人間で相均しいものと推定される)」を加える。
(四) 同枚目表末行から同枚目裏九行目までを次のとおり改める。
(1) 村上儀平は大正一二年三月一日隠居し、その長男村上儀四郎が同日家督相続し、村上儀四郎は昭和五二年三月二三日死亡し、その長男控訴人村上寿一は系譜、祭具及び墳墓の承継者に指定されるとともに、子として相続をし、控訴人村上カ子は妻として、控訴人藤本富造、同松本幸子は子として、それぞれ村上儀四郎を相続した。
(2) 村上友次は明治四三年七月一五日死亡し、その長男村上哲三が家督相続し、村上哲三は昭和四八年六月一二日死亡し、その妻控訴人村上ロクは系譜、祭具及び墳墓の承継者に指定された。
(3) 村上忠蔵は隠居し、その後若干の経緯を経て、その長男村上仙蔵が明治二二年三月三〇日再度の家督相続をし、村上仙蔵は明治三四年九月一〇日隠居し、その長男村上正吉が同日家督相続し、村上正吉は昭和二一年一〇月一五日死亡し、その婿養子村上師寿が家督相続し、村上師寿は昭和五四年四月一日その長男控訴人村上師幸に対し右承継取得した共有持分権及び墳墓を譲渡した。
(4) 豊島常吉は明治一二年二月一七日隠居し、その長男豊島仁次郎(仁二郎)が家督相続し、豊島仁次郎は大正一四年七月二一日隠居し、その長男豊島友三郎が同日家督相続し、豊島友三郎は昭和八年九月二二日死亡し、その長男豊島安喜が家督相続し、豊島安喜は昭和五三年五月二一日死亡し、その養子控訴人豊島政吉は、豊島安喜の系譜、祭具及び墳墓の承継者に指定された。
(五) 同八枚目裏二行目の「基づき」を「基づく保存行為として」と、同三行目の「原告村上儀四郎」から同一一行目末尾までを「前記のとおり、村上儀四郎は死亡し、控訴人村上カ子、同村上寿一、同藤本富造、同松本幸子が法定相続分に従いその権利義務一切を承継したから、被控訴人城山覚、同橋本憲興、同円応寺、同橋本正禅各自に対し、いずれも前記共同不法行為による本件土地共有持分権侵害による慰藉料として、控訴人村上カ子は前記五〇万円の三分の一にあたる一六万六六六六円及びこれに対する本件不法行為後である昭和四六年六月四日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金、控訴人村上寿一、同藤本富造、同松本幸子はそれぞれ同じく九分の二にあたる一一万一一一〇円及びこれに対する本件不法行為後である同日から支払ずみまで同所定同割合による遅延損害金の各支払を求める。」と各改める。
(六) 同九枚目表五行目から同六行目にかけての「否認する。」を「争う。」と改め、同行目末尾に続けて「控訴人ら主張の行政処分がなされたことには疑問があるが、国がこのような墓地を人民共有墓地として取り扱う権限を有するに至つたと解すべきことは認める。なお、控訴人ら主張の共有はいわゆる総有であつて民法上の共有ではない。」を、同八行目の「(1)」の次に「ないし(4)の各事実は認め、同(5)」を各加える。
2 (当審における新たな主張)
(一) (墓地使用権の存在についての控訴人らの主張)
仮に、控訴人らの共有持分権取得の主張が理由がないとした場合には、控訴人らは以下のとおり主張する。
(1) 地租改正において、明治九年、本件土地は、村上忠蔵外四五人持とされ、その旨の「検図求積簿」が作成されているのであるから、遅くとも同年当時村上忠蔵外四五人は、本件土地を墓地として使用し得る権利(以下「墓地使用権」という。)を有していたことは否定できない。
しかして、右の墓地使用権は、墳墓所有のための権利であつてその墳墓は官庁の許可によつて特設された墓地内においてのみ設定されるものであるから、墳墓は容易に他に移動せしめ得ない施設であり、しかもその施設は特殊の標示物によつて公示される関係上、墓地使用権に固定性を認めるのが合目的的であり、加えて、墳墓の所有権は、旧民法時代においては家督相続人に、現行民法のもとにおいては祖先の祭祀を主宰する者に代々相続され、相続人が断絶して無縁とならない限り殆んど永久的に承継され、かつ死者に対する宗教的礼拝の対象となるべき特殊の財産であるから、その墳墓を安置する土地の使用権には永久性が生ずる。
このように、墓地使用権とは、墳墓の所有者が、その所有目的を達するために、他人の土地を固定的、永久的、かつ、支配的に使用する物権的権利であり、民法施行前から慣習法上認められ、それが民法施行後もそのまま民法施行法三七条に定める登記を経ることなく同一内容をもつて依然社会の慣行上認められてきているものである。
したがつて、物権的権利である墓地使用権には、物権的妨害排除請求権が認められる。
ところで、本件土地について墓地使用権を取得した村上忠蔵外四五人の準共有持分は相均しいと推定されるので、村上忠蔵、村上儀平、村上友次、豊島常吉は、本件墓地使用権につき四六分の一の準共有持分権を有していたところ、前記のような順次の相続等による承継により、それぞれ控訴人村上師幸、同村上寿一、同村上ロク、同豊島政吉が各四六分の一の準共有持分権を取得した。
よつて、控訴人村上師幸、同村上寿一、同村上ロク、同豊島政吉は、民法二六四条、二五二条ただし書により、それぞれ本件土地についての墓地使用権に対する各準共有持分権四六分の一に基づき、妨害排除請求として被控訴人円応寺に対し本件建物を収去して本件土地を明け渡すことを求める。
(2) 仮に、村上儀四郎に本件土地についての共有持分権がなかつたとしても、同人は、本件土地についての墓地使用権に対する準共有持分権又は自己の使用区分地域についての墓地使用権を有していたのであるから、被控訴人らは、これらを侵害した慰藉料を支払う義務がある。
すなわち、前項主張のとおり、村上儀平の長男である村上儀四郎は、家督相続により本件墓地所有権についての準共有持分権四六分の一を取得したのであるから、被控訴人らが原判決七枚目裏三行目から同八枚目表末行までに摘示された方法により右準共有持分権を侵害した不法行為によつて、村上儀四郎は、多大の精神的苦痛を受けており、特に、本件土地が墓地であつたために備えていた威容及び美観が損われ、あるいは、墓地参拝上の不便、不利益を被つて宗教的感情を害されており、これらの精神的損害を慰籍するには五〇万円が相当である。
仮に、本件墓地使用権についての準共有持分権四六分の一が認められないとしても、本件土地は、使用者毎に区分して共同使用され、各使用者は区分せられた使用地域に墓石を所有して当該使用区分地域を占有し、同地域内に埋葬する限りにおいては当該使用者が自由にこれをなし、他の使用者の使用区分地域に埋葬するには、その使用者の同意を得ていたのであるから、各使用者は、自己の使用区分地域については、前項主張のような物権的な墓地使用権を専有していた。
そこで、村上儀四郎は、同人の使用区分地域について物権的な墓地使用権を有していたのであり、被控訴人らは右墓地使用権を害して村上儀四郎に精神的損害を被らせたのであり、これを慰藉するには同じく五〇万円が相当である。
(二) (墓地使用権の存在についての被控訴人らの答弁)
控訴人ら主張のような墓地使用権という権利概念が一般的に存在することは認める。
右墓地使用権は、祖先の霊を安置するという宗教的意識を基礎として墳墓所有という特定された目的のため、通常は寺院所有の共葬墓地を使用する権利であり、そのことから、この権利の性格として永久性、固定性を具備し、祭祀承継者が断絶して無縁とならない限り、原則として永久的に承継されていくものである。
(三) (墓地移転に伴う墓地使用権の消滅等についての被控訴人らの主張)
(1) 寺院が周囲の繁華街化に伴い環境的に聖地として不適当となつた反面で、地価も騰貴したことから、その境内地、境内建物、墓地等その法人として所有する不動産を売却処分して、その売却代金により閑静な郊外に土地を買い上げ移転しようとすることがあるが、その場合、右不動産の売却につき寺院規則所定の信者ら利害関係者に対する行為の要旨の公告、及び責任役員の賛成決議、総代の同意のほか、改葬に関する手続を経たときは、右移転に反対する者の墓地使用権も右墓地移転に当然随伴し、その反面従前の対象地に対するものは消滅すべきものであるところ、これを本件についてみれば、村上儀四郎はひとり反対したが、同人以外の者は全員右墓地移転に賛成したので、被控訴人円応寺の墓地移転についての決議が成立し、新しく建設された納骨堂あるいは墓地への移転手続も終了し、よつて、本件墓地は墓地として廃止されたのであるから、その時点で、控訴人ら主張の墓地使用権は、従前の同権利の対象地であつた本件墓地については消滅した。
(2) 仮に、控訴人らの墓地使用権が消滅した旨の主張が認められないとしても、被控訴人円応寺は、従前の墓地のうち村上儀四郎が墓地使用権を有する使用区分地域以外について適法に墓地を廃止したのであつて、村上儀四郎の有した墓地使用権を不法に侵害したことはない。
ただし、被控訴人円応寺の墓地移転により、村上儀四郎が墓地使用権を有した使用区分地域の墓地が、従前のように広い墓地の一部分であつたときとは異なつた環境の中に存在することとなつたが、被控訴人円応寺に墓地を廃止せず従前の環境を保持すべき義務まではない。
(四) (墓地移転に伴う墓地使用権の消滅等についての控訴人らの答弁)
争う。
(五) (墓地使用権の濫用についての被控訴人らの主張)
村上儀四郎及び同人の墓地使用権の承継人と称する控訴人村上寿一は、多数の本件墓碑を撤去しないため、被控訴人円応寺は、旧墓地全体を転売することも他に転用することも不可能となり、今日まで十数年間にわたり放置するのやむなきに至り、寺院移転計画に重大な経済的打撃を受け、移転先では資金調達難のため未だに本堂や庫裡の建設もできず、粗末な仮建物のまま徒に日時を経過せざるを得ない窮状に立たされている。
このような結果を招来するに至つたのは、村上儀四郎並びに控訴人らが、被控訴人円応寺の適法な移転決定に対し、あくまでも反対し墓地使用権の存在を主張するためであるから、まさに墓地使用権の濫用である。
(六) (墓地使用権の濫用についての控訴人らの答弁)
争う。すなわち、被控訴人橋本正禅、妻エイ、並びに被控訴人橋本憲興の親子は、貸店舗、楽器の販売、ダンスホール等の経営を目的として、昭和四一年五月一七日、宝工業株式会社(以下「宝工業」という。)を設立し、同年一二月、被控訴人円応寺の本堂、庫裡の存した八代市本町三丁目四号五番一の境内地を宅地に地目変更したうえで被控訴人円応寺から右宝工業への所有権移転登記を行ない、同土地上にダンスホールを建設し、ダンスホールの営業を行なつていたものである。つまり、橋本親子は、宝工業を設立して事業を行なうこととし、これら事業運営のため色々と資金を要するので、この資金調達のために、被控訴人円応寺の本堂を処分したものであつて、現在、被控訴人円応寺が本堂や庫裡を有しない根本原因が橋本親子に存することは明らかである。
したがつて、被控訴人らは、控訴人らが墓地使用権を濫用していると主張するが、逆に、被控訴人円応寺が墓地全体を転売、転用しようとする行為こそ、仮にこのような権利が被控訴人円応寺に存するとしても、権利の濫用と目すべきものである。
理由
一控訴人らの先祖らが被控訴人円応寺創立以前から本件土地を共有していた旨の主張についての認定判断は、原判決一五枚目表三行目から同一八枚目表一一行目までの理由説示のとおりであるからこれを引用する。
二社寺境内地処分の際に控訴人らの先祖を含む四六名の共有であることが確認されたとの主張についての認定判断は、次のとおり改め加えるほか、原判決一八枚目表一二行目から同二三枚目裏三行目までの理由説示のとおりであるからこれを引用する。
1 原判決一八枚目裏二行目の「同第四一号証」の次に「、同第一三七号証の一、二、同第一三八号証」を加え、同一九枚目表一行目の「法用」を「法要」と、同四行目の「国民」を「人民」と、同一一行目の「官地」を「官有地」と各改め、同枚目裏一三行目の「上地の対象とされなかつた」の次に「し官民有未定の状態に置かれた」を、同行目末尾に続けて「、その後、明治六年七月二八日には地租改正条例(太政官布告第二七二号)が公布され、これに基づき地租改正事業が全国的に施行され、」を各加え、同二〇枚目表二行目の「国有地の墓地を」を「旧免税寺地内の境内墓地は民有の確証の有無にかかわらず地券不発行処分とされ」と、同三行目の「境内地を」を「現境内地を民有にあらざるものとして」と各改め、同行目末尾に続けて「その他の全部の」を、同八行目の「一区域ヲナセシ地」の次に「(すなわち、旧免税寺地内の境内墓地である官有地第三種)」を、同枚目裏九行目の「地と」の次に「なすべき処分がな」を、同行目の次に改行して「しかして、前記のような境内墓地に対する右処分は、檀家による外形的な共同利用の事実のみを基礎としており、旧来の占有(所持)関係を基礎とする民有の確証による民有地編入という地租改正の一般的な原則にあえて従わなかつた官民有区分・所有帰属確定の唯一の特例ともいうべきものであり、これに基づき檀徒あるいは檀徒総代等名受の地券が発行されたものである。」を、同一一行目の次に改行して「そして、右認定の経緯に照らせば、境内墓地について前示処分により近代的意味での檀徒などによる共有が確定されるに至つたものと解する余地がないわけではない。」を各加える。
2 同二一枚目表三行目の「原告」の前に「成立に争いのない甲第一〇四号証の二、」を、同二二枚目表一行目の「当時の」の次に「(かつて免税寺地であつた)」を各加え、同四行目の「方針のもとに」を「処分がなされ、これによつて」と改める。
3 同枚目表九行目の「当時」の前に「前示のとおり、」を加え、同裏六行目の「にすぎず」を「ものであるから」と改め、同七行目の「本件土地が」の次に「従前より」を加え、同八行目の「できない」を「当を得ない」と改め、同二三枚目裏一行目の「登記されたこと」の次に「それ自体」を、同行目の「前記」の次に「共有の確認に関する」を各加える。
三控訴人らの先祖を含む四六名が本件土地を人民共有墓地となすべき処分によりその所有権(共有持分権)の形成付与を受けた旨の主張について
前記二に認定した事実によれば、明治九年頃、被控訴人円応寺に対して境内地処分が行われたが、その際の社寺境内外区別の調査によつて、本件土地は、現況墓地であることが確認され、墓地は原則として官有地に編入しないとの方針に従つて、上地の対象から除かれたことが認められる。そして、右の調査の結果作成されたと推認し得る「検図求積簿」(甲第四号証)には、本件土地は村上忠蔵外四五人持と記載され、その後、土地台帳には村上仙蔵外四五名の共有名義で登録されたことは前記認定のとおりであるが、右は境内墓地を境内とは区画し、これを地券を発して地租区入費を賦課しない民有地第三種と定め人民共有墓地とする政府の方針のもとに、前記「地所処分仮規則」に基づき、以前の所有者如何にかかわらず、墓地内の墓の所有者を墓地共有者となすべき処分を行つたことを推測させるものであり、そうだとすれば、本件墓地についても右に従い村上忠蔵外四五人持とされたものであり、たとえ当時本件土地の所有者(すなわち、旧来の所持者)が被控訴人円応寺であつたとしても、右の処分でもつて村上忠蔵外四五人の者に近代的意味での所有権(共有持分権)を帰属させるべきことが目指された(なお、これをもつて所有権<共有持分権>の形成付与と称するかどうかは表現の問題に過ぎない。)可能性を否定することはできないが(なお、土地台帳に本件土地が村上仙蔵外四五名の共有と登録された経緯は前記二説示のとおりである。ところが、前示地租改正作業における地券制度と実体的墓地所有権との対応関係及びその変遷等の詳細が必ずしも明らかでなく、したがつて、右の登録の事実それだけでもつて、本件土地の所有権が村上忠蔵外四五人の者によつて取得されたものと即断することはできない。)、他方、右の処分は、墓地が前示上地の対象とならなかつたことを前提とし、いわゆる民有の確証によらない唯一の特例であり、被控訴人円応寺所蔵宝暦年間同寺住職忍誉弁海作成「円応開基由来之記」(乙第三号証)には「寺床表口二〇間三尺、裏入一九間一尺御免地」との、同寛政二年一二月同寺作成巻物(乙第二号証の一ないし三)には「境内口二〇間三尺、入一九間一尺御免地」との、同明治八年五月同寺住職鷲山隆善作成「公達並届書控」(乙第四号証の一、二)には「境内総坪数三六九坪」(ただし、同年六月、三八八坪九合一勺余に書き改められているかのようである。)との、同明治三三年六月(当時住職無住のため)檀家総代藤崎勇哲作成「当山開基由緒」(乙第五号証)には「境内地・官有地・寺敷二五三坪七合八勺四才、境内接続墓所・共葬墓地・共有墓地一三四坪二合三才(合計三八七坪九合八勺七才)(なお、右両地を併せた方形の地域を囲む板塀の一辺が二〇間三尺・他辺が一九間一尺)」との各記載がなされ、本件土地(墓地)を含む三九〇坪足らずの土地が一貫して「寺有財産」として書き出されていることからすれば、宝暦年間から被控訴人円応寺に帰属すべきものと考えられていた本件土地について、明治三三年六月の時点まで、その実体的・私法的な所有関係に格別の変化は生じなかつた(少くとも、当時の被控訴人円応寺の関係者間の意識の上ではそういつて差し支えないものと思われる。もつとも、右の乙第四号証の一、二、第五号証の記載自体が、本件土地が前示地租改正手続における処分の対象とされたことを示すものであるし、当時右の関係者間でも本件土地の共有名義関係が家督相続の対象として取り扱われるべきものという程度の認識があつたことは否定できない。)可能性も残り、かれこれ対比すれば、たとえ前示処分が目指したところのものが近代的意味での所有権の帰属関係であつたにしても、本件土地を村上忠蔵外四五人の共有となすべき私法的効果を当然伴うものとの評価を受けるだけの確固たる実体的法律的基礎を具えていたと断定するには、未だ、その具体的裏付けのための資料が不足し、いささかの躊躇を禁じ得ない(なお、<証拠>を総合すれば、一般に、前示政府の方針に基づく処分に由来するところの、墓地の共有関係の公簿上の記載には、(1)「A(町名)町組、B町組、C町組……」、(2)「A(町名)町共有」、(3)「A村(行政区画)共有」、(4)「甲(氏名)、乙」、(5)「A(町名)町甲(氏名)、B町乙、C町丙」、(6)「A郡B村甲(氏名)外四名、(7)「甲(氏名)外一一一名(この種の表示のうちには、外〇名の全員の氏名を別紙に記載したものと、そうでないものとがある。)」等の多種多様のものがあり、これらは、墓地所有権を社寺から剥奪しこれを人民に帰属させることが目指された帰属関係、並びに従来からの実際上の共同用益関係の両関係を含め、当時、実体的法律的共有関係の整序が不十分であつたことの一端を示すものである。)。したがつて、右の点に関する控訴人らの主張は採用するまでには至らない。
四控訴人らの先祖らが贈与を受けた旨の主張についての認定判断は、原判決二四枚目裏五行目の「前記一の2の(一)ないし(三)」を「前記二」と改めるほか、同裏二行目から同二五枚目表一行目までの理由説示のとおりであるからこれを引用する。
五取得時効の主張について
前記二のとおり、本件土地は、明治九年の「検図求積簿」(甲第四号証)で村上忠蔵外四五人持と記載され、その後、本件土地の土地台帳及び登記簿表題部にも村上仙蔵外四五名の共有名義の記載がなされたのであるが、控訴人らは、本件土地が村上忠蔵外四五人持とされて以後、同人ら又はその相続人らにおいて共同所有の意思をもつて本件土地を占有した旨主張するので、この点について判断するに、<証拠>を総合すれば、浄土宗である被控訴人円応寺の住職は、原則として一代限りであつて世襲ではなく、代々檀徒総代において人選し、浄土宗熊本教区教務所に願い出て決定される慣例であり、一時住職不在の時期があつたが、先代住職橋本天禅は、昭和三五年一二月頃招へいされ、例外的にその子被控訴人橋本正禅が昭和二年頃跡を継いで現住職となつたこと、本件土地は、かつて特設された墓地としての一区域を形成して被控訴人円応寺の寺敷部分に接続し、同地上に歴代住職並びに檀・信徒一族の(そして、少数ながら異宗派の者の)墓碑、墳墓が設定されていたこと、終戦前より本件紛争の発生に至るまで、本件墓地に共有名義人(檀徒)一族を埋葬する場合は、それぞれ自らの判断で従来より割り当てられている区分された使用地域内に適宜埋葬場所を選択し、自らの負担で依頼した墓掘人に埋葬して貰い、それぞれ思うままに自己所有の墓碑、墳墓を設けていたものであつて、以上の埋葬関係に(経を上げる以外)被控訴人円応寺、あるいは、その住職は一切関係しなかつたこと、また、被控訴人円応寺、あるいは、その住職の関与・介入なしに、共有名義人(その子孫ら承継人を含む。以下同じ。)(檀徒)相互間で、それぞれ前示使用区域の一部の譲渡を受けて新しく墳墓を設けた例が存すること、一方、大正初期以前から、他所から熊本県八代市内に転入して来た者などから、いわゆる「墓借り」の申出があれば、被控訴人円応寺の住職が本件土地内の無縁墓を整理除去して空地を作り埋葬場所を指定し、墳墓設置の許可をしていたが、右の場合名義のいかんを問わず、金銭その他の対価的性質を有するものを受領するようなことはなかつたこと、本件墓地の草取り掃除は、被控訴人橋本正禅の母タキが、大正時代から死亡した昭和三四年頃まで、同被控訴人の妻エイの手助けを受けながら隠居仕事としてこれを行い、毎年二回盆と暮に檀家を一軒一軒回つて、墓一基について終戦前は一〇ないし一五円、終戦後は五〇円、本件紛争発生前頃は一〇〇円程度の掃除草取り賃を集めていたが、ちなみに無縁墓についてはそもそも掃除がなされることはなかつたし、また、右掃除草取り賃には墓地使用料、あるいは、墓地管理料の意味は含まれていなかつたこと、被控訴人円応寺の移転問題が起こる昭和四〇年代初め頃まで、同被控訴人ないしその代々の住職と檀徒との間で本件土地自体をめぐつての紛争が生じたことは一度もなかつたし、檀徒の中には本件墓地が前示共有名義となつていることを知らない者が少なからずいたこと、なお、本件土地のうち本件建物の敷地部分に対し熊本県八代市から課税されている宅地並みの固定資産税については、被控訴人円応寺は、課税対象が自己所有の本件建物の敷地部分であることは認めつつも、本件土地が自己所有名義でないことを理由に納税を拒絶し、そのため督促状が控訴人村上カ子宅に送付され、同控訴人において納税していること等が認められ、前記橋本憲興の各供述中、右認定に反する部分は前記各証拠に照らして措信できず、ほかに右認定を左右するに足りる証拠はない。右に認定した事実によれば、地租改正手続における前示の処分後、今日まで、村上忠蔵外四五人ら及びその相続人ら檀徒が、本件土地内におけるそれぞれの使用区域を中心に墳墓設置・設置場所の決定等その他の維持管理、並びに売買などの処分を主体的に行つてきたといえるが、他方、被控訴人円応寺の代々の住職も本件土地全体についてこれを寺院共葬墓地として維持するとともに、共有名義人である檀徒に対する割当使用区域を除く部分、並びにかつて同区域であつた部分を含めて無縁墓敷地部分について埋葬許可、墳墓の設置許可、同設置場所の指定等の管理行為をしていたことは否定できないのであるから、両者の占有関係の実質を比較してみる限り、控訴人ら主張の者がその主張のごとく本件土地全体を共同所有の意思をもつて占有して来たとまでは認めるに足りず、本件土地の時効取得をいう控訴人らの主張は理由がないものといわざるを得ない。
六以上のとおり、本件土地につき控訴人らが所有権(共有持分権)を有する旨の主張は、いずれもこれを認めるに足りる証拠がないから、右の権利の存在を前提とする被控訴人らの請求はその余の点について判断するまでもなく理由がないものというべきである。
七墓地使用権の主張について
控訴人らは、仮定的に、すなわち本件土地につき控訴人らが所有権(共有持分権)を有しないとしても、墓地使用権を有する旨主張するので判断するに、およそ、墓地使用権とは、祖先の霊を安置するという宗教的意識を基礎としつつ、神聖かつ宗教的礼拝の用に供するための祭祀財産である墳墓を所有するという特定された目的のため、官庁の許可によつて特設された共葬墓地内においてのみ設定され、右墳墓そのものが容易に他に移動できない施設であり、しかもその施設が右墓地と一体となつて墓石など特殊の標示物によつて公示されるため固定性を具え、さらに墳墓の所有権は、旧法下では家督相続人に、現行法下では祭祀主宰者に受け継がれ、右承継者が断絶して無縁とならない限り、原則として永久的に承継されていくものであるところ、これと一体不可分の関係に立つため永久性を有し、民法施行前より慣習上生成した権利であつて、民法施行後も民法施行法三七条所定の登記を経由することなく、同一内容をもつて依然社会の慣行上認められてきている対世的支配的権利というべきものであるから、通常、共葬墓地においては目的土地を複数の使用者毎に区分して共同使用し、各使用者は割り当てられた使用区域に墳墓の施設を所有して当該区域を専用するが、墓地使用権自体は、当該区域のみならず目的土地全部につき成立し、その各権利者間の関係は準共有であるものと解されるので、右各使用区域の侵害に対してはもとよりのこと、右の目的土地全体を右のごとく特設された共葬墓地として墳墓所有のため使用する権利に対する侵害状態が現に存する場合には、いわゆる物権的妨害排除請求権が認められ、右の各権利者がそれぞれ侵害者に対し右侵害の排除を請求し得るものと解するのが相当である。そして、これを本件についてみれば、前記二及び五に認定した事実に照らせば、遅くとも明治九年頃までには、村上忠蔵外四五人の本件土地の共有名義人らが、本件土地につき墓地使用権を取得していたことは、これを否定することができないものというべきであり(この点については被控訴人らも明らかに争わない。)、<証拠>によれば、明治九年頃における本件土地の共有名義人には村上儀平、村上友次、村上忠蔵、豊島常吉らが含まれていること、その各相続人らが右の者らからその(村上忠蔵外四五人間で相均しいものと推定されるところの)墓地使用権(準共有持分権)を承継し、それぞれ墓の管理等に当つてきたことが認められるところ、請求原因1の(二)の(1)ないし(4)の各事実(当判決事実欄二の1の(四)の(1)ないし(4)記載の各事実)は当事者間に争いがない。
以上のところよりすれば、本件土地につき控訴人らが墓地使用権(準共有持分権)を有する旨の主張は理由があるものというべきである。
八被控訴人らの抗弁について
ところで、本件において被控訴人らは数々の抗弁を主張するが、そのうち、原判決事実摘示第二の三の1ないし6記載の各抗弁については、いずれも控訴人らが本件土地の共有持分権を有していることを仮定したものであるところ、前示のとおり、本件においては、控訴人らが右共有持分権を有していることを未だ確定するまでに至らないのであるから、もはやこれらを判断する限りではないというべきであるので、その余の抗弁、すなわち、控訴人らの墓地使用権に関する抗弁についてのみ、以下判断する。
<証拠>を総合すれば、被控訴人円応寺の住職である被控訴人橋本正禅、並びにその子である被控訴人橋本憲興は、昭和四〇年頃、一家の月平均収入が二万七、八〇〇〇円にとどまるとし、同程度の収入では橋本家の生計が立たず、ひいては被控訴人円応寺の経営にも支障があるなどの理由で窮状を訴えていたところ、和多山喜一ら檀徒総代の一部の者が「檀家が援助できないので住職において思いどおりやつてくれ。」との意見を述べたことから、早速、被控訴人円応寺の寺院建物及び本件墓地が周囲の繁華街化に伴い、環境的に聖地として不適当となつたので、これを山手の閑静な郊外である同県八代市古麓町(通称宮地)へ移転すべきであると称し(ところが、実際は、本件土地及び被控訴人円応寺旧寺院建物敷地〔境内地〕は同市の中心街に所在するが、これに接続して正教寺外一寺〔二寺院〕の境内地、墓地等が現在なお存在しており、必ずしも環境的に聖地として不適当な状態になつたものとはいえない。)、その跡地に貸店舗・ダンスホール等を建築する計画を立て、橋本家一族で右の貸店舗・ダンスホール経営を目的とする宝工業株式会社を設立し(設立登記昭和四一年五月一七日)、本堂、庫裡等旧寺院建物が存在した同市本町三丁目四号五番一の境内地を宅地に地目変更したうえ、昭和四一年一二月一〇日被控訴人円応寺から右宝工業への所有権移転登記手続を終えるなど準備にとりかかつたが、元檀徒総代の亡村上儀四郎は、同人の先祖がかつて「高瀬屋」の屋号で薬種商を営んでいた八代地方の由緒ある旧家で、その本家筋の者が代々檀徒総代を勤めるばかりでなく、世間から「高瀬屋の円応寺」とはやされるまでに被控訴人円応寺を盛り立て、寺院建物の建築はもとより、住職の生活の援助、婚姻の世話等事ある毎にこれを支援して来るなど、被控訴人円応寺とはとりわけ縁が深かつたこと、また、村上家一族の寄贈の敷地に、父村上儀平外二名の檀徒総代が被控訴人円応寺住職の生活費補助の目的で建築していた貸家について、被控訴人橋本正禅が、被控訴人円応寺において従来より所有権を有していた旨を主張したばかりでなく、村上儀四郎においてその賃料を恣にしたかのような言明をしたため、感情を害し檀徒総代を辞した経緯があつたこと等から、右移転・建築計画には承諾を与えなかつたこと、しかし、被控訴人橋本正禅は、被控訴人円応寺の責任役員・総代らが、相互の連絡協議の不足から詳細な事情を理解できないままながら、一応の同意を与えたことから、右移転・建築計画を推進することとし、本件墓地の跡地利用のため、共有名義人の子孫らのうち氏名、所在等の判明した一部の者から、昭和四二、三年頃、(相手によつては本件墓地が前示の共有名義となつていることを伏せたり、また、右計画が被控訴人円応寺の既定方針であるかのように振る舞つて)墓地改葬一般に関する処置一切の件の委任状、並びに墓地の任意処分の承諾書を徴して八代市長の改葬許可を受け、あるいは無縁墓についてはその改葬許可も受けずに、村上儀四郎家一族の墳墓を除くその余の墳墓を全部改葬ないし除去してしまつたこと、ところが、右移転・建築計画の杜撰さや資金運用・事業経営に対する経験の不足から予想外の事態が続発し、浄土宗本山や浄土宗熊本教区教務所等からの必要な許可も得ないまま、被控訴人円応寺の全部の寺院建物を取り壊し撤去したものの、多額の債務を負担するに至り、移転先に本堂その他の寺院建物を再建する見込みも立たなくなつたばかりでなく、右の跡地に予定どおりの店舗(スーパーマーケット)用建物は建築することもできず、結局、ダンスホールのみを建て(ちなみに、右ダンスホール用建物の犬走りは本件墓地に侵入して設置されている。)、これに伴つて、墓地、埋葬等に関する法律所定の許可を受けないまま、本件墓地をダンスホールの客用駐車場として利用し始めたこと、しかして、また、被控訴人橋本憲興、同城山覚は、本件墓地跡の一部に本件建物を建築しようとし、昭和四六年二月頃、まず、被控訴人城山覚名義で建築確認申請手続をしたところ、県当局は、(1)建築工事については、墓地、埋葬等に関する法律一〇条二項の規定による県知事の許可を受けること、(2)敷地の権利義務に関する紛争については、建築主と権利者(反対者)相互において解決の後、建築するよう極力努力すること、の二条件を付して建築許可したが、右条件を無視して建築に着手したため、村上儀四郎が被控訴人城山覚相手に仮処分の申請をし、同年四月一日裁判所から本件建物の建築工事中止・続行禁止仮処分命令が発せられ、右命令に基づいて執行官により、建築続行禁止現状不変更の立礼が立てられたにもかかわらず、これを遵守しないばかりか右の立礼を引き抜いて放り出し、また、村上儀四郎らが墳墓を守るためとして、その周囲にめぐらした有刺鉄線の棚をも撤去し、建築確認申請名義を被控訴人橋本憲興に変更し(なお、その際も前記二条件が付されたがこれも無視して)、建築工事を続行し、ついに本件建物を完成してしまつたこと、なお、本件建物は、かつて、被控訴人円応寺の貸家において食堂経営をしていた被控訴人城山覚に対し、従前本件土地付近に建築されていた古い建物(ちなみに、同建物の所在地番、位置、種類、構造、床面積、所有名義、現実の用法等、並びに、本件土地との関係などについては、本件においては殆んど明らかでない。)を修理して貸すので、(前記移転・建築計画のため)右貸家を立ち退いて貰いたい旨要請したところ、被控訴人城山覚は、それでは食堂経営には不向きなので、自分自身が国民金融公庫から建築資金(三八〇万円)の融資を得るので、本件建物を新たに建築して欲しい旨申し出たことから、完成後は被控訴人円応寺の所有名義となす約束で本件建物を新築することとし、建築後、これを被控訴人城山覚に賃貸し、その賃料と右建築費立替金とを相殺することとしたが、同被控訴人は、当初本件土地上に本件建物を建築するについてはなんら問題はないものと思い込んで、これに協力することとしたものの(そのため、現在では、被控訴人橋本正禅から種々欺罔されたものと考えている。)、前示のとおり、最初自己名義で建築確認を受け、県当局の許可条件及び仮処分命令により、右敷地が共有名義の墓地であり、村上儀四郎との間に問題があることを明確に知つた後も、建築確認名義を被控訴人橋本憲興名義に変更し、同被控訴人及び被控訴人橋本正禅らと共同して本件建物の建築工事を強行しこれを完成してしまつたこと、被控訴人橋本憲興は、表通りから各墳墓へ通じていた旧通路(参道)付近の前示犬走りをコンクリートで本件墓地の高さより約五〇センチメートルも高くして、右の旧通路に面して依然存在する村上儀四郎一族の墓に対する参拝を困難ならしめ、被控訴人橋本正禅は、墓石囲り(玉掛)が埋まる程に本件土地内に土盛りをし、玉掛内に雨水などが流れ込むようにしてしまつて、著しく美観を損い、さらに、右の旧通路際に墓石などを雑然と置いて参拝の妨害をし、あるいは、他からゴミ捨て場とされ、行商人・通行人等から放尿のための格好の場所とされるような事態を招来してしまつたこと等が認められ、前記橋本憲興の各供述中、右認定に反する部分は、前記各証拠に照らして措信できず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
右に認定した事実によれば、本件土地の墓地使用権者の一人である村上儀四郎が墓地改葬に同意せず、その一族が従来どおり本件土地を墓地として使用しているのみならず、そもそも、墓地、埋葬等に関する法律によれば、墓地は、墳墓を設けるために墓地として都道府県知事の許可を受けた区域であり、また、埋葬・焼骨の埋蔵は墓地以外の区域に行つてはならないので、墓地の管理者は、正当の理由がない限り、埋葬の求めを拒めないとされているものであるところ、本件土地も、右の法律の適用を受ける一種の共葬墓地であつて、現実にはその大部分の墳墓がすでに除去されているとはいつても、墓地としての廃止区域変更の許可がない限り埋葬のため正常な状態を維持すべき公共の必要が存すべき(同法一〇条参照)性質の土地であるから、墓地としての廃止を前提に、本件墓地の前示移転・建築計画遂行を目的として、前示のごとく本件土地の共有名義人の一部の者から、墓地の改葬移転と従来の墓地は被控訴人橋本正禅において任意処分することを承諾する旨の承諾書、並びに、墓地改葬に必要な一切の処分を同被控訴人に委任する旨の委任状の交付を受けたとしても(なお、ここでは、前示のとおり、右の承諾書、委任状の交付を受ける際、相手によつては一部問題を残した点は暫く度外視してみても)、前示移転計画等が適法となるわけのものではなく、依然法律上も本件土地は従前の用途を廃することなく、依然墓地として存続されなければならず、このことに照らせば、本件墓地に対する控訴人らの墓地使用権にはなんらの消長を及ぼすものではないから、右の権利が消滅した旨の抗弁に理由のないことは明らかであるし、本件土地の一部につき適法に墓地を廃止したことを前提とする被控訴人の主張も理由がないものというべきである。また、前示のような諸般の事情に照らせば、被控訴人ら指摘の点に十分考慮を払ってみても、なお、控訴人らの墓地使用権の行使が権利濫用であるとする被控訴人らの主張は当を得ないものである。
以上のとおり、墓地使用権に関する被控訴人らの抗弁はいずれも理由がない。
九そして、以上のところよりすれば、被控訴人らには、亡村上儀四郎が本件土地を墓地として使用することを妨げて、同人の本件土地に対する墓地使用権(準共有持分権)を侵害したという共同不法行為が成立し、右共同不法行為によつて、本件土地が墓地、すなわち、宗教的礼拝の場所として備えていた全体的な威容及び美観が著しく損われ、そのため、同人は、その宗教的感情を害されたばかりでなく、崇敬する祖先の墓地参拝上の不便、不利を被るなどの精神的苦痛を受けたことが明らかであつて、これらの精神的損害を慰藉するには五〇万円が相当である。
一〇よつて、控訴人らが、被控訴人円応寺に対し、本件土地に対する墓地使用権(準共有持分権)の行使として、本件建物を収去して本件土地の明渡しを求めるとともに、前示共同不法行為による本件土地に対する墓地使用権(前同)の侵害による亡村上儀四郎の慰藉料請求権を各法定相続分に従つて承継した控訴人村上カ子が、被控訴人城山覚、同橋本憲興、同円応寺、同橋本正禅各自に対し、同慰藉料一六万六六六六円及びこれに対する本件不法行為後である昭和四六年六月四日から支払ずみまで民法所定年五分の割合による遅延損害金、右同様の承継をした控訴人村上寿一、同藤本富造、同松本幸子が、右被控訴人ら各自に対し、それぞれ一一万一一一〇円及びこれに対する本件不法行為後である同日から支払ずみまで同所定同割合による遅延損害金の各支払を求める本訴各請求は、いずれも理由があるからこれを認容すべきところ、それと異なる原判決は失当で本件控訴は理由があるから、原判決中控訴人ら関係部分はこれを取り消すべく、訴訟費用の負担について民訴法九六条、八九条、九三条を適用し、なお、仮執行の宣言申立てについては相当でないから、これを却下すべく、主文のとおり判決する。
(美山和義 谷水央 江口寛志)